落合徳子のつくりかた 「サードプレイスとしての音楽 2」

長崎ギター音楽院でのお話です
amirisu株式会社 2021.11.18
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父が当時、そこでギターを習っていたのかどうかは知らないのですが、長崎ギター音楽院というところに私は入ることになり、子供用のギターを買い与えられ、毎日いやいやながら練習することになりました。それからは、家の最寄りのバス停からバスに乗り、諫早駅から長崎駅まで電車に乗り、そこから10分ほど歩いて音楽院に通う生活が毎週土曜日の午後の日課に。まだ小学2年生ですので、とにかく毎週大冒険です。
小学校4年生ぐらいまでは、行き帰りの移動だけで必死でしたので、きっと真面目に通っていたんだと思うのですが、当時同じような年代の子供たちが8名ほど音楽院に通っていまして、そうなると大体想像がつくように、みんなでサボって遊びに行ったり、買い物したりが始まるわけです。諫早から来ている子は私だけで、長崎市内の都会の学校の子の話しを聞いたり、一緒に繁華街に行ったり、諫早にはないファストフードを食べたりと、自分の身の回りとは全然違う環境を味わえるいい時間だったと思います。

でもちゃんとギターもやっていたんですよ!この学院は山下亨先生主催なのですが、当時のギター界でスターだった山下和仁さんが先生の息子さんで活躍されており、先生の周りにはギター界の有名人がウジャウジャいらっしゃいました。今思うと、有名な方にたくさん紹介してもらいましたし、一緒に共演もしたんですが、なんせ子供でしたのでそんなことには何も気がついておらず。もったいないことしたなと今思ったりします。

ある程度弾けるようになった小学高学年の頃、平日の夜に開催されていたギター合奏団に先生からお願いされて入ることになり、諫早から参加していた方の車に乗って夜の練習にもお邪魔するように。

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